コラム「徒然なるままに」(2008年11月)
連合大阪 事務局長 脇本ちよみ
全国学力テストの結果が発表されてから(橋下知事によってというのが正しいかもしれないが)「学力問題」が妙にヒートアップしている。
「学力」とは何かという議論はあるにせよ、「学力」は低いより高いほうがいいに決まっている。それは誰も否定しない。当たり前のことだ。学力向上に向けて反復練習や毎日の小テスト、百ます計算やフラッシュカードの活用、朝や放課後の5分10分学習の実施、基礎からの手作りドリルの活用など、学校現場ではそれぞれに工夫して取り組んできているのが実態だし、教員としてその力をつける努力は当然すべきだと思う。ただ、教え方の技術のみで学力は決まらないというのが私の実感である。
子どもたちがクラスの一員としてお互いを認め合う集団になると、子どもたちは自ずと「共に育つ」ことを喜びとするようになる。逆上がりができなかった子ができればみんなでたたえあう。組み立て体操の逆立ちの特訓に毎日みんなで取り組み、全員できた時の大歓声。時計の読めない子どもと運動場に大きな時計を書き、自分たちが針になって短針と長針の動き方を教える…。そんなクラスになると「テストをする」といえば、放課後みんなで教えあいながら学習をして帰るようにもなる。できる子とできない子の格差がなくなり、全体的に底上げがされて正直平均点はぐんと上がる。そんな経験は多くあり、子どもたちの集団のありかたと「学力」とは大きくかかわっていると思う。
また、家庭のありかたや、親の暮らしのありかたとも深くかかわっている。父親が事故で亡くなり、母親は二重三重に働いて家計を支える家庭の中、けなげに就学前の弟や妹の面倒を見て夜もすごすMちゃんに「宿題ができていない。忘れ物をするな」とただ咎められるだろうか。成績が落ちただけでなく何度も万引きを繰り返すKくんを、毎日のように叱りとばし怒る私に「お母ちゃんが出ていったんや。帰ってきてくれたらやめるし勉強もする!」と叫んで大泣きした…そんな彼に「誰でもつらいことはある。強くなれ」と諭すことですむだろうか。いじめが発端となり不登校となって、結果私学に進んだAくん。途中でお父さんがリストラにあい、授業料が払えず中退せざるをえず、なかなか就職ができず悩んでいる。その責任を彼のみに負わすのはやはりどこか違うだろう。
「学力」は「子どもの暮らし」そのものなのだと思う。親の暮らし、仕事、家庭教育のありかた、教員も含め学校集団のありかた、地域の支援、社会的なバックアップ……などなど非常に大きな視点がいると思う。本当に子どもたちに「学力」をつけるには、それらを包括する総合的な政策が必要だ。「学力」とは何かという大きな議論と共に、学力テストの結果の公表の是非や学校・教員批判だけに終わらない学力論議を切に望みたい。子どもたちの未来のために。