コラム「徒然なるままに」(2007年7月)
連合大阪 事務局長 脇本ちよみ
先日、孫たちを連れて「蛍鑑賞ツアー」に出かけた。
今、わが家の夫の最大の楽しみは「孫たちとの旅行」である。私は土日にしかできないことをいろいろとしたいのではあるが、日ごろの不義理の後ろめたさもあり毎回なるべくいっしょに行くことにしており、今回もいっしょに出かけたのだ。
勉強不足で全く知らなかったが、蛍は夜8時から飛び始めるらしい。8時に宿を出て、清流の「蛍の里」付近に8時半に着いた。バスを降り、水田のあぜ道を通り清流に向かうともうすでにファーリ、ファーリと蛍が光っている。「わあー、光ってる、光ってる…」と子どもたちも同行の大人たちも大喜び。
清流に沿ってもう少し上手にあがると清流に生えるヨシの間や竹やぶの中には、明るくなるくらいの蛍が飛んでいる。「見て、見て」「光ってる、光ってる」「飛んでる、飛んでる」と一つ一つに声が上がる。夫がそっと捕まえた1匹の蛍を二人の孫たちは交互に手のひらに乗せ、「わあー光ってる!」「明るい!」「何か緑色っぽい光やなあ」「こそばい…」「かわいい…」と口々に言いながら本当にうれしそうである。何ともうれしい、ほほえましい、癒されるひと時である。
私はふと、アニメ映画「火垂るの墓」を思い出した。第二次世界大戦さなか、度重なる空襲のなか、食べ物がないなか、周りの大人たちもいっぱいいっぱいで、手を差し伸べられないなか、幼い二人が必死に暮らし、生き、結局……死んでしまう兄と妹の実話に基づく話である。その妹「せっちゃん」のなぐさめにと兄が蛍をたくさん捕ってきて家代わりの洞窟(どうくつ)のようなところに飛ばすシーンがある。「蛍、明るいね」と笑顔で喜ぶのだが、次の日にはその蛍がみんな死んでしまい、せっちゃんは「みんな死んでしもうた」と言ってその死んだ蛍を埋めて墓をつくるのだ。
このアニメの主人公「せっちゃん」は5歳。ちょうど私の孫娘と同じ年である。食べ物がなくひもじくて、「せっちゃん」は空っぽの「サクマドロップ」の缶に水を入れて振り、かすかにあめの味とにおいのする水を飲んで飢えをしのぐ場面もあり、この映画を見て以来「サクマドロップ」の缶をみると今でも胸が痛む。
この話が実話であるだけに、今回も笑顔で大きく手を広げて蛍の光に興じている子どもたちと「火垂るの墓」のせっちゃんがだぶって見え、なんだか胸が痛んだ。
蛍を見て、笑っている私の孫たちも含め、この子どもたちを、“「せっちゃん」のように死なせてはならない”“ひもじい思いをさせてはならない”とあらためて思った。
「平和」は特別なことではなく、こうした毎日の穏やかな日々のなかにあり、平穏な普通の暮らしを壊してしまうものは何なのか、私たち大人はしっかりと考え見つめていく責務があると、楽しい「蛍ツアー」のひと時にあらためて考えさせられた。くしくもこの日は6月23日。沖縄戦の終結した「沖縄慰霊の日」であった。