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コラム「徒然なるままに」(2006年12月)

美しい風景とともに・・・残したいもの

連合大阪 事務局長 脇本ちよみ

 11月末の土日、久しぶりに夫と二人、小旅行を楽しんだ。日ごろは夫が「我が家は“父犬”家庭」とまわりに吹聴しているように、私の帰りは毎日遅く、土日も仕事で出かけることの多い暮らしで、ちょっとおわびもこめて亀岡までの本当の小旅行に出かけたのだ。

 ゆっくりと温泉につかり、おいしい夕食を食べ、9時ごろからはテレビが見られるという何とも極楽のような、久方ぶりのゆったりとした時間が持てて「命の洗濯」ができた感じである。たまにはこんな時間がやはり必要だとあらためて痛感したところである。

 ちょうど時期的に紅葉が見ごろを迎えていたので、行きは「嵯峨野・嵐山」の天竜寺付近を、帰りは「東福寺」の通天橋からの紅葉を楽しむことにした。

 休日だったこともあるが、どちらもすごい人・人・人・人…。特に「東福寺」では、通天橋から遠く離れた建物の周りをこれまた幾重にも取り囲むようにグルグルまわって、ようやく最後尾があり「えー、こんなに並ぶの!?」というほどの人の列であった。最後尾に並び、ぞろぞろと歩きながら思い出したのは、ベトナム旅行での「ホーチミン廟(びょう)」に続くベトナム人民の列だった。あの時も「こんなに多くの人がどこから来たのか」と思うほど、多くの人が「ホーチミン廟」の周りを幾重にも取り囲んで並んでいた。それくらいベトナムの人にとっては「ホーチミン」は偉大な人だったのかなと感心したことを覚えている。その列を思い出すくらい、多くの人の列が東福寺にも並んでいた。

虐められている女の子のイラスト 小一時間ほどぞろぞろと少しずつ歩いて、ようやく通天橋からの紅葉を眺めることができた。橋の上も人・人・人…。人と人の間からチラチラと苦労して眺めた紅葉であったが、しかし「並んだだけのことはあったなあ…!!」と思えるほどの絶景であった。何十本いや何百本の紅葉の木がそれぞれに色づいて、緑、黄、茶、そして赤の色が幾重にも重なり合って、さながら紅葉のじゅうたんのようになっていて本当に美しく、長い間並んだ疲れすら忘れるくらいの絶景であった。

 しかし残念だったのは、それから後のいろんな光景である。

 われ先にと「いい場所」を求めてカメラを向け合い押し合う人々。絶景の周りに散らかっている“あふれるゴミ”。電車の駅までの狭い道を、つえをついて歩く老人をけ飛ばさん勢いで追い抜く子どもたちの群れと、それを注意も、とがめもしない親たち。電車を待って並んでいる列に割り込む人の多さ…。客の多さに日ごろと勝手が違いパニクっている駅前の喫茶店のウェートレスに「何してんねん」と罵倒(ばとう)する客。などなどである。

 「美しいもの」を見に来た人たちの(一部ではあるが)“人としていかがなものか”と思えるいくつかの“美しくない光景”に何とも残念というか寂しい思いがしたのだ。せっかくこんなに「美しい風景」を見たのに、だから「心洗われてもいいのに」と。

 これでは何のために美しいものを見たのだろうかという疑問すら覚えてしまう。道徳や倫理観を一方的に押し付けるつもりは決してないが、美しい風景とともに、「人としての道」も残していける社会にしたいな…と思った旅行であった。