コラム「徒然なるままに」(2006年11月)
連合大阪 事務局長 脇本ちよみ
悲惨な「いじめ」が大きな社会問題になっている。
学校現場に身をおいた経験から考えると「いじめ」はどこのクラスにも、どこの学校にでも起こりうる事柄であり、その意味で教育関係者は子ども同士の関係に敏感であらねばならないと思う。
もう20年以上前のことであるが、あるクラスを担任してすぐSに対するいじめに気付いた。上靴をはじめいろんな物が隠される。いやな仕事は何やかやと理由をつけて彼に回す。靴箱や机に心無い言葉を(「きたない」とか「死ね」とか)書いたものが入っている。体力のない彼が遅いスピードで走ればみんなであざ笑う。休み時間には幾人かの男子が彼の頭を羽交い絞めにして壁にぶつける。注意すると「冗談やんか、冗談」と笑って言う。遠足に行く電車の中では電車の揺れにまかせて何人かが「ワー」っと、彼に覆いかぶさって倒れかかりそれを繰り返す。これも注意すると「遊びや、遊び」と言う。
私はある日、意を決していつも彼に「遊び」と称して羽交い絞めをしているKをいきなり私自身が羽交い絞めにし、壁に頭を打ち付けた。「何すんねん?」と言うKに対し、私は「遊びや、冗談でやっただけや」と言い放った。ブスっとしている彼に「痛いやろ!こんなことを遊びでやられてどんな気分や?」と聞いた。怒っているKと「先生何すんねん?」という顔をして見ている子どもたちを教室に座らせ、黒板にいつもSがやられている事柄を全部思い出す限り書き上げた。最後にそれらを大きな丸で囲み、その上に「冗談!遊び!」と書いた。そしてSに聞いた。「こんなこと毎日やられて楽しいか?」と。彼は泣きながら小さいけれどもしっかりとした声で「楽しくない。いやや」と答えてくれた。
私は「遊び、冗談って何やろ?それってみんなが楽しくなることじゃないの。でもいつもそれを受けているSは楽しくない、いややって言っている。これは冗談とか遊びとか言えないのと違う?Kも今私にやられてどう思う?楽しいと思ったか?」「この黒板に書いてあることがもし自分に毎日繰り返されたら、明日から学校へ来たいと思うかどうかみんな答えてほしい」と子どもたち一人ずつに意見を求めた。誰一人「学校に来たい」とは言わなかった。
この取り組み後、徐々にではあるがクラスの子どもたちの関係はましになっていった。しかし、それでもいじめがなくなったというには程遠いものであり、幾度となく子どもたちとの真剣なぶつかり合いが続いたことを思い出す。
「目には目を、歯には歯を」のようなことは教育として、あまり褒められることではないだろう。しかし、人の痛みや思いを本当にわからせるにはどうしたらいいか、親も教員も含め、すべての大人が真剣に考え、子どもたちに伝えていかなければいけないと思う。そして最も大きいのは大人社会にいじめがないかである。子どもたちは敏感である。大人社会の価値観を皮膚感覚で先取りしているのだ。「冗談や」「冗談も通じない職場はつまらない」などと言いつつ「パワハラ」や「セクハラ」が身近に起こっていないだろうか?
いじめの問題を教師の資質のみの問題にすることなく、教育現場全体、社会全体の大きな問題として議論できる土壌が今、大切ではないだろうか。