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コラム「徒然なるままに」(2008年3月)

死ぬこと、生きること…

連合大阪 事務局長 脇本ちよみ

 義母が逝った。86歳という年齢を考えればいたしかたないことではあるが、突然の急変であり、やはり驚きと寂しい思いでいっぱいである。これで、私たち夫婦双方の両親は一人もいなくなってしまった。

 この年になってもやはり「親」は偉大であり、特に母親の存在は大きいとつくづく思う。何かあって落ち込んだり、困ったり、頼りたいと思う時、私はやはり知らぬ間に、心の中で母に語りかけていることが多い。今回、義母の葬儀で見た夫の涙もそれを感じさせた。

 そして、年を追うごとに「母が亡くなった年(私の場合母は75歳だった)まで、あと何年」と思うことが多くなった。その年が過去働いてきた年数の半分を切ってしまった今…「死」はかなり近くに感じるようになり、「死」そのものや「死」の前後のいろんなことを知らず知らず考えてしまう。例えば、「認知症になったら…」「末期癌になったら…」「意識障害になったら…」等々。

 親しい友人とも最近はよくそんなことを話しあう。ある友人は「告別式や墓のあり方、多少の財産の使い方も含め遺言をしたためておきたい」と言う。また別の友人は「認知症になったら、世話はプロのいる施設にまかせて、決して家族で担おうなどと思い込まず、残ったお金はそれに使ってくれと言う」と。別の友人は「多少の財産でも自立している子どもたちとかには残す必要もなく、役立つところに寄付したい。その旨をきちんと書いて残しておく」ともいう。

 先日の新聞に認知症になった場合の「成人後見人?」の指名や葬儀のありかた、墓や永代供養のあり方、財産相続や処分についてなど、細かく自分の意思を生きているうちに文書などで示しておくことが亡くなってからの混乱や争議を防ぐもとであり、そうする人が増えているという記事が載っていて思わず、切り抜いた。

 「死」を迎える準備をすることは、自分の「生」を振り返ることでもある。正直、今はしたいことも多く「長生きを」と思っているが、人間の生は正直わからない。“明日逝ってもいい生き方”とまではいかないが、「死」を迎える時に後悔しない生き方に近づくには今後どう暮らすかをしっかりと考えていかなければ…とあらためて思った。

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